HANS
―闇のリフレイン―
夜想曲1 Herz
1 鞄の中には……
闇の血管を縫うように長い車両はゆっくりと進んでいた。電車は駅から駅へと鼓動を打つように鉄の音を響かせて渡って行く。四角く切り取られた過去と未来の残像が執拗なまでに二人を追い掛けている。
はじめは大勢いた乗客も停車する度に減り、今では離れたボックス席に数人が残るのみになった。そのボックスの一つに彼らは向かい合わせて掛けていた。街の灯りが幾つも遠ざかって行く。そして、何度目かの踏切を過ぎた時、不意に彼女が問いを発した。
「電話くれた?」
膝の上のバッグに添えられた彼女の手を見つめていたハンスがゆっくりと顔を上げた。
「半年くらい前だったと思う。突然わたしの携帯に掛かって来たの」
霞み掛けた思い出を切り裂くように彼らの脇を疾風が吹き抜け、すれ違う列車の警笛が悲鳴のように鳴り響いた。
「あれはあなただった?」
ハンスはじっと彼女を見つめ、それから僅かに頬の筋肉を緩めて頷いた。脇に置かれた彼の黒い鞄もまた座席から伝わる振動に身を任せている。
「……そう。あれは僕でした」
ハンスは一語一語を噛み締めるように声を発した。
「だったら何故……?」
美樹はバッグの上に置いた手を組み替えて訊いた。
「どうしてすぐにそう言ってくれなかったの?」
彼は深い緑の森に射し込んだ光のように微笑するとゆっくりと息を吐いて言った。
「僕は死に掛けていました。もし、あの時君が僕の名前を呼んでくれなかったなら、僕は本当に死んでいたと思います。君が呼んでくれたから、今僕はここにいる。こうして君の目の前に……」
穏やかなその微笑は一年前と変わらない。しかし、かつてはあれほど彼の周囲に纏わっていた闇は消えていた。照明に照らされた彼は明るい色彩を持ち、その闇を窓の向こうに隔てることで、新たな鍵を手に入れようとしていた。
「ハンス……」
漠然とした不安に怯えるように、彼女は睫毛を震わせた。
「どうしたの? 僕が怖いですか?」
バッグの紐を固く握りしめている彼女の手に、ハンスはそっと自分の手を重ねた。そして、じっとその目を覗き込んで訊いた。
「ううん。そうじゃないの」
美樹は慌てて否定した。
「あなたが生きていてくれて、とてもうれしい。でも……」
そう言い掛けて俯く。
「でも……?」
彼は次に彼女が言葉を発するのを根気強く待った。その間に車内アナウンスが次の駅名を告げ、列車はスピードを落として行った。踏切の赤いランプが窓硝子に反射して、一瞬だけ二人を捕らえて去って行く。
「あまりに……突然過ぎる……」
彼女が言った。
「僕達は一緒にいなければいけません」
電車は無人のホームに停車した。乗客の何人かが降りて行った。
「僕には君が必要です」
「ハンス……」
開いたドアから流れ込んで来る空気は、湿り気を含んだまま無遠慮に車両の中を占領して行く。
「信じてください。僕には何よりも君の愛が必要なんです。そうでなければ、僕は1秒だって生きていけない」
ドアが閉まり、ガタンと車両が小さく揺れて、列車は再び走り始めた。
「わたしね、まだ小説を書いてるのよ」
美樹が言った。
「そこそこに売れて、今は割と安定してる。少し前にね、家も買ったの」
「家?」
「そう。海の近くに……。友達もたくさんできたし、週末にはパーティーをして、みんなでカラオケをしたり、映画を観たりして過ごすの」
そう言う彼女の頬が微かに震える。
「美樹……」
線路沿いには規則正しく杭と鉄線が張られている。高い警笛を鳴らして暗い塗装の貨物列車がすれ違って行く。
「今ね、週刊と月刊の連載を4本抱えていて、明後日にも締め切りがあるの。他にも単発の仕事や書き下ろしの小説なんかもあって、それで……」
彼女は軽く目を伏せて窓の外を見た。山間の空で、小さな星が光って見えた。
「仕事が好きなんですか?」
ハンスが訊いた。
「充実してる」
彼女は軽く頷いて答えた。
「何故、そんなこと言うですか?」
彼は少し悲しそうに呟いた。
「僕がいなくなったせいですか?」
車内を照らしていた照明が瞬きするように一瞬だけ点滅した。
「君は顔色がよくありません。きっと無理をしてたですね。僕が早く来たれなかったから、こんなに……」
彼の日本語はいつもはっきりとした主張と曖昧な表現が含まれていた。
「ハンス……」
彼はそっと彼女の手を取ってキスをした。
「やめて、ハンス。お願いだからそんなことしないで」
「僕がもっと早く来たれればよかったんだ。そうしたら、君にこんな苦労はさせなかったのに……」
「苦労なんかしてないよ。言ったでしょう? 充実してるって……。今は忙しくても幸せなの」
「だったら、もっと幸せにしてあげる。僕が来たんだもの」
その瞳に込められた思いは、少しだけ空の色に似ていた。が、その向こうに広がる茫漠とした夜は未だ明けはしない。そんな歪な眼球の底を見極めることは、誰にもできなかった。
「僕は生まれ変わったんです」
そう言うと彼は唇の端に笑みを浮かべた。
「途切れなかった一本の細い糸。それを辿って僕はようやくここに来ました。美樹、愛しい君のもとへ……」
「ハンス……」
美樹が突然立ち上がり、彼女のバッグが床に落ちた。ハンスが拾って席に置いた。それから彼も立って彼女を抱いた。
「放さない。もう二度と……」
その時、車内アナウンスの声が響いた。
「あ、次の駅で降りるよ」
彼女はそう言うと、そっと彼の腕を外し、自分のバッグを持った。
「鞄に何が入ってると思いますか?」
彼は自分のそれを持つと言った。電車は徐行を始めている。二人はドアの前に来ていた。
「着替えとかじゃないの? それにパソコンとか……。それとも、仕事に使う……とか?」
彼女は指で銃の形を作って見せた。が、彼は首を横に振った。
「心臓です」
「え?」
「僕の心臓」
「それってどういう……」
その時、ドアが開き、身体は無防備のまま夜気に曝された。閑散としたホームに発車のメロディーとアナウンスが響く。ハンスはさっと彼女の腕を取るとホームに降りた。
駅舎を出ると二人はその先にある海の公園を少し歩いた。彼は欄干に手を置いて水面を眺めた。波間に時折現れる気泡に黒い鰭が群がり、水は暗い空を反射していた。
「そろそろ帰りましょう。少し冷えて来たわ」
奔放な風と戯れている彼の背後で美樹が言った。
「家はここから近いですか?」
「車で5分くらいよ」
二人はタクシー乗り場まで移動すると車に乗って帰途に着いた。
美樹の家は緩やかな坂の上に建っていた。外観は煉瓦風の二階建て。低い石の段が三つあり、門は鉄製で脇には駐車スペースもある。が、今は車は一台も停まっていない。玄関へ続く通路の両側には小さな花壇があり、季節の花が植えられていた。
「美樹ちゃんも花が好きですか?」
ハンスが訊いた。
「好きよ。庭にはもっとたくさんある。それに、家の中にも……。毎週、花屋さんが新しいお花を届けてくれるの」
「それは素敵だ」
彼は周囲を見回して笑った。
「どうぞ。中に入って」
彼女が鍵を開け、ハンスを呼んだ。言葉通り、玄関に入った途端、飾られた花々とその香りに包まれて、ハンスはうれしそうだった。広く取った玄関ホールには大きな観葉植物が置かれ、吊り棚には様々な人形や民芸品などが並べられていた。家の中はすべて木目で統一されて落ち着きがあり、目にもやさしい印象を与えた。
「家ではこれに履き替えてね」
美樹がスリッパを出して言った。
「美樹ちゃんとお揃いだ」
それには色違いのウサギの模様が付いていた。
「あなたが来るかもしれないと思って用意しておいたの」
「僕は必ず来たですよ。そのために日本へ来たんです。君と一緒に住むために……」
「住むって……」
彼女は困惑していた。
「でも、いつかは帰らなくちゃいけないのでしょう?」
「帰るですって?」
彼は驚いて美樹の顔を見つめた。
「だって、日本にいるのは任務の間ってことじゃないの?」
「僕の任務は君を愛することだけです」
彼の耳を覆っている黄金の髪。その隙間から赤い石のピアスが見えた。それは今の彼にはよく似合っている。白いシャツやニットのベストにも好感が持てた。しかし、印象は操作されている。どうしても違和感が拭えなかった。自分が知っている彼と今目の前にいる彼と……。同じ記号では単純に結べないと彼女は思った。
「どうしたんですか? そんなに僕を見つめて……」
彼は実際の年よりもかなり若く見えた。学生だと言っても誰も疑わないだろう。もともと童顔だったところに服装と髪型によって更に拍車を掛けたようだった。
「あなた、本物?」
思ってもみなかった彼女の問いにハンスは笑い出した。
「ふふ。何を言い出すのかと思ったら……。みんなだって認めてくれたでしょう?」
「でも……」
「君だって認めた。僕は僕ですよ。他の誰でもない」
邪気を隠したような微笑を浮かべて彼が言う。
「証拠を見せましょうか? ここで? それともベッドで? 僕はどちらでも構わない。今、この場で証明したって……」
彼は持っていた鞄を床に落とすと上着のボタンをはずした。
「やめて!」
彼女が思わず静止する。
「どうして? 証拠を見たくないんですか?」
「いいのよ、もう……。それよりも心臓」
「心臓?」
「あなたが言ったんじゃないの。その鞄には心臓が入ってるって……。それをそんな風に扱っていいの?」
ハンスは細く息を吐いて言った。
「それは……よくありませんね」
彼は床に落とした鞄を大事そうに抱えた。が、中に何が入っているのか言うつもりはないようだ。
「じゃあ、そこのソファーにでも掛けて待ってて。今、お茶を持って来るから……」
リビングは広かった。中央に置かれた間仕切りの向こうにも大型の応接セットが並べられそうだ。が、どういう訳かそちらにはほとんど物が置かれていない。コーナーごとにある植物の鉢や大型のテレビ、そして壁際に何枚かの絵と飾り棚があるきりだ。
「ここでダンスパーティーでもするのかな?」
ハンスはリビングの中を歩き回った。
「これなら、グランドピアノを2台置いても余裕だな」
彼はそう呟くと顔を顰めた。
「ピアノ……」
発した音は響かずに消えた。敷き詰められた暗褐色の絨毯と弦の葉を思わせる緑のカーテン。下を見ると、陽気なウサギがウインクしていた。壁に掛けられたからくり時計の人形達が怪訝そうにそんな彼を見つめる。
「ハロー! 僕はハンス・D・バウアーです。今日からここの住人になるのでよろしくです」
彼は微笑み、時計に挨拶した。それから、棚の花や人形達にも同じことを言って回る。
「そうだ。庭にも花があると言っていた」
ハンスは窓の方へ駆けて行くとカーテンをめくった。
「海だ!」
美樹が言った通り、庭には様々な花が咲いていた。そして、坂の下の家並の向こうには荒涼とした夜の海が広がっていた。
「昼間はもっときれいよ」
いつの間にか美樹がトレイを持って来て言った。
「早起きすれば朝陽が昇るところも見えるわよ」
そう言うと彼女は持って来たカップをテーブルに置いた。
「そいつは素敵だ。海沿いを走ったら気持ちよさそうですね」
「きっとね」
彼女は棚からチョコレートとクッキーの入った缶を取り出すとテーブルに並べた。
「お茶にしましょう。それとも、何か食事がしたいかしら?」
「いいえ。それで十分です」
ハンスはテーブルまで戻ると美樹の向かいのソファーに座った。
「それで、僕達、いつなら結婚できるですか?」
紅茶を一口だけ飲んでハンスが訊いた。
「だからそれは、まず両親に会って許可をもらって、それから気持ちの整理がきちんとついてから……」
「それはいつですか?」
「いつって言われても……安易に約束できないわ。大切なことだもの」
「僕はいつでもOKなんですけど……」
彼女の顔は香気で曇って見えた。
「わかりました。じゃあ、君がその気になった時に……」
彼がそう言ったので美樹は少しほっとした。
それから、からくり時計が時を告げ、人形達が代わる代わる扉を開けてダンスする様子をハンスは面白そうに眺めていた。
「ねえ、あなたのピアノ、ここに持って来ようか?」
唐突に彼女がそう言った。
2杯目の紅茶を注いでもらって、砂糖を入れてかき混ぜていた彼の手が止まる。
「取り合えずアパートに置いてあるピアノを運んでもらえるように手配したの」
「え?」
「ごめんね。勝手なことして……。でも、長くここにいるなら必要でしょう? ピアノ」
「……そうですね」
彼はカップの中の液体を見つめた。
「ミルクも容れる?」
「……はい」
そう返事をしながらも、彼は黙って彼女の仕草を見ていた。
「何となくね、わかってた」
美樹が言った。
「ここ1カ月くらいの間、ずっとあなたのこと考えてた。あなたが死んだなんてとても信じられなかった。友達はみんな、わたしのこと心配してくれた。悪い夢なんて早く忘れなさいって言われた」
「忘れる? 僕のことを……?」
彼女が頷く。
「でも、わたしには忘れることなんかできなかった」
二人の間に垂れ込めていた暗雲が他のすべての音を奪った。彼らはまるで深い湖の底に閉じ込められてもがく魚のように時間のない闇を彷徨っていた。
「だって、そうでしょう? わたし達、ずっと傷付け合ったまま長いこと後悔という檻の中にいたんですもの」
「ああ……」
彼が頷く。
「でも、もういいんだ。僕達、またこうして出会えたんだもの」
「許してくれる?」
「君は何も罪なんて犯していないよ。だから、謝る必要なんかない」
「でも……」
砂糖壷に描かれているのは西洋の風刺画。車輪が逆回転するように時が遡って行く。
二人は同じ風の中にいた。綻びた過去を紡ぐ闇の中に……。そして同じ夢を見ていた。時も空間も越えて出会う魂の邂逅。彼らは自分達がそんな魂の一つであると信じて疑わなかった。
「わかっていたの。あなたが来るって……。何となくわかってた」
彼女が言った。
「また、あの風が見えたんですか?」
「ううん。そうじゃない。これは漠然とした予感。いえ、それも違う。わたしがそう望んでいたから……。あなたが生きて戻って来たらいいって……ずっと思ってた。それで物語を書いたの。あなたのこと……。もしもあの時、運命が差し替えられたならって……。それっていけないこと? それは罪なの?」
彼女の目に涙が滲む。
「それが罪だと言うのなら、そんな罪など僕が断ち切ってやる。だから安心して……。僕は戻って来ました。君が望んだ通りに……。だから、もう泣かないで……。僕がいるよ。ずっと君の傍にいるから……」
夜は長く、その日、陸から吹いて来た風と海から吹いて来た風が上空でぶつかって逆巻いた。何もかも破壊しようとする力とそれらを救済しようとする力。選べない夜明け。彼らはそんな夜の中に身を沈めていた。彼らはいつの間にか同じ滑車に紡がれる糸となり、より合わされて2本のレールとなる。そして、戻れない明日へと続く夜汽車を走らせるのだ。
「大丈夫。明日はまた同じ電車に乗ろう。君の両親に会いに行かなくちゃ……」
家にはゲストルームが三つあった。リビングの奥にある12畳の和室。あとは2階にある洋室が二つ。他には同じく2階にある美樹の寝室と書斎である。バスとトイレはそれぞれの階にあり、1階にのみダイニングキッチンがある。敷地も駐車スペースと庭があり、かなりゆったりとしていた。彼女一人で住むには広過ぎるほどだ。が、いずれは両親と住む予定でここに決めたのだという。
「シャワーが済んだら好きな部屋で寝ていいよ。お布団はみんな整ってるから……」
木製のドアには帆船の彫り物がされていた。
「素敵ですね」
ハンスは2階の奥のゲストルームの扉を開けて言った。
「でも、一人では寂し過ぎるでしょう? だからお友達を呼ぶんですか?」
彼が訊いた。
「それもある」
美樹が応える。
「じゃあ、今夜は寂しくないですよ。僕がいるもの」
「そうね」
彼女が頷く。
「僕が一緒に寝てあげる」
ハンスはさり気なく後ろ手でドアを閉めるとじっと彼女を見て言った。しかし、彼がそう言い出すかもしれないということを予期していた彼女は冷静に構えて表情を崩さなかった。
「ねえ、いいでしょう?」
甘えるように彼が言った。
「駄目よ、そんなこと。あなたはゲストルームで寝るって約束したじゃない」
「どうして? 僕はただ君の近くにいたいだけなんだ。手を握っていたいだけ……」
しかし、彼女は毅然とした態度で断った。
「駄目ったら駄目よ! そんなこと言うなら出てってもらいますからね!」
ぴしゃりと言われた彼は、今度は哀願するように彼女に迫った。
「お願い。君がいやがるようなことは何もしません。だから……」
「いや!」
美樹は拒絶し、寝室のドアを閉めた。
「美樹ちゃん!」
彼は未練たらしくドアを叩いた。
「おやすみなさい!」
美樹はそう言うと部屋の電気を消した。
「開けてよ! 本当に傍にいたいだけなんだ。約束するから……」
彼女はしっかりと内鍵を掛けていた。ハンスはいつまでもそこで喚いたり、ドアを叩いたりしていた。
「ちょっと! いい加減にして! 眠れないじゃない!」
30分が過ぎた頃、美樹は少しだけドアを開けた。彼はドアの前に座り込んで泣いていた。
「ハンス……」
憐れむように彼女は言った。
「……入ってもいいですか?」
上目遣いにハンスが訊いた。
「それは……駄目!」
慌てて閉めようとするとそのドアを押さえて彼が言った。
「いいと言ってくれるまでは放さない」
「放さないって……」
彼女は途方に暮れた。
「君がいいと言ってくれるまでは勝手に入ったりしません。でも、許可をくれるまでずっとここにいる」
彼はドアの取っ手にしがみ付いた。
「ほんとに? いいって言うまでは何があっても入って来ないのね?」
「はい。約束します」
「じゃあ、ずっとそこにいなさい。わたし寝るから……」
そう言うと美樹はベッドに入ると背中を向けた。しばらくしてそっと毛布の影から覗くと、彼はまだドアのところにいた。もう泣いてはいないようだったが、ドアが開いたままなので冷たい風が廊下から流れ込んで来る。
「ハンス、いつまでそうやってるつもりなの? そんなところにいると風邪をひくわよ」
「いいよ。美樹ちゃんの隣で寝られないなら……」
それからさらに数十分の時間が過ぎた。
「本当に仕方のない人ね。それじゃいいわよ。こっちに来ても……」
ついに根負けして美樹が言った。
「ほんとに?」
彼はうれしそうに笑うとベッドに近づいて来た。
「でも、約束よ。何もしないって……」
「もちろんです。約束は守ります」
彼はすっとベッドに潜り込んで来た。
「ほら、こんなに冷えちゃって……」
美樹が彼の手に触れた。
「本当に風邪ひいちゃったらどうするの?」
それからその手や肩や背中を摩って温めてやった。
「美樹ちゃん……そんなことしていいんですか?」
「わたしがする分にはいいのよ」
毛布が少しずり落ちて、彼女の肩と背中が露わになった。
「あ、駄目ですよ。今度は美樹ちゃんが冷えちゃう」
そっと毛布を掛け直して彼が言った。
「大丈夫よ」
「いけません。ほら、こんなに冷たくなってる」
思わず肩に触れた手を慌てて放そうとするハンス。
「いいよ。触れたって……。このベッドはシングルだから、くっついてないとはみ出ちゃうでしょ?」
「じゃあ、抱きしめてもいいですか?」
「少しだけならね」
そして二人は同じベッドの中で、子どものように手を繋いで眠った。
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